改めて実感する。
インターネットの環境整備に留まらず、世界の裾野を拡げようとしてきた人類の望む境地とは何か。
共有感覚ではないかと。
共通認識を目指し、共有言語を増やし、共有できる仲間を募り、共有できる空間を創る。
ノウハウとか体系的な智識見識とか諸々に言い方をもってはいるが、最終的には同じ感覚を持ち合わせる仲間、脳内感覚的には融合に至るレベルでの繋がりを求めるのが人間の活動の源泉に感じられる。
皆が楽しめるから売れるとか、皆のためになるから売れるとか、そういう見方もないことはないのだが、結果を逆算してみたら、同じ感覚を共有したいというのが最も強いエネルギー源になるということになる。
共有しうる感覚は人それぞれではあるものの、根幹には同じ認識がある。
何が言いたいかってシンプルに、この共有感覚に向かって活動することが自分の使命感を思い起こすための骨格になるということ。
売れる商品は、その時に多くの人が求める感覚と創った人間の動機とがピッタリと符合したから売れている。
これが本人の計算によるのか無自覚によるのかはさておき、共有感覚に強く寄り添いつつその内容や教示を周囲に拡散したからこその人心掌握になっているということ。
高度経済成長においてはとても図りやすかった。
物が足りなかったから、物を欲する人たちに物を提供する。
不況においてもシンプルだ。
通貨が欲しい人が多いため、通貨の作りかたと通貨そのものを提供する。
運用方法もその一端。
自分も漏れなく、その運用方法を使いこなせればどれほど生活を彩る事が出来るのかと考える機会が多い。
通貨社会であればこその技術提供だが、これは直接のリンクにはならないとも思う。
通貨が大量にあっても消費する活動に乏しければ虚しいと想う可能性があるからだ。
僻みにも取れるがしかし実際のところ、デフレーションの極致を迎えた国での通貨価値が紙切れ同然であった事実を思えば然もありなん。。。
共有感覚というのはそこには当たらない。
不況におけるエンターテイメント事業の推進躍進を考えれば分かることだが、不況であるだけエンターテイメントは花開くという実際がある。
側面が違うので話も変わってしまうが、通貨が共有感覚を直接引用したものではないということ。
いくら金を積んでも首を縦に振らない相手もいるということを忘れてはならない。
よく詐欺商法を見掛けると、
「時間が最も価値がある」
という文言を目にする。
間違ってはいないと思う。
しかし、最も価値があるというのは通貨との価値交換が不可能であるという側面でしか論じていない。
使い方次第では時間を通貨で買ったことに値する活動もあるので、そこには意味があるという見地だ。
これも正しいが正しくないと感じている。
意義を持つのが通貨に依存する前提では時間の価値を共有感覚に昇華する活動に直結しないことがあると思うからだ。
次続く。。。