20180918

具体的なアクションはこれから見つけるとして。


こうなりたい、という図式は幼少からの変遷を見るに大きくは変わっていないように感じる。


元々は映画とアニメを見て育ち、後に漫画に出会うのだが動画は楽しむものと認識していた節がある。


漫画は対して静止画である。

自分でもこれなら同じものを創れる、そんな気持ちになって模写をよくやっていた。


物心ついてから11歳の頃までは遊び感覚が強かった。

その後が仕事の感覚がついたとかではないのだが、友人に見せる機会が増えたりしていいものを描こうとする気持ちが強くなったのだ。

並行するようにゲームに触れる時代に入る。

僕はスーパーファミコン世代だ。


絵について。

いいものを描こうとするからには悪いものを見せられない、勉学の評価以上に気持ちが左右された。


1990年代前半の頃だ。


いいものを描くのはエネルギーがいる。

とてもではないが、片手間で気楽に素晴らしいものを仕上げることなど出来なかった。

それはそうだ。

出来ないことを出来るために試行錯誤した上ですぐさま悪い点を見つけて反省する以外に出来ることがないという心持ちになっていたから。

そもそも素晴らしいものなど出来ない。

だが素晴らしいものに向かう習練は怠らなかった。

特に観察すること、同じジャンルの作品は好き嫌いなく様々見ていたように思う。


気がつけば絵を描くこととゲームをすることばかり考える高校生時代を過ごしていた。

発表したわけでも作品を完成させた訳でもないが、この技術が欲しいとなったら模写と添削の繰り返し。


好きになった作品がビジュアル面での嗜好から入るようになるパターンが増えた。


このときに影響された作品が土台になって創りたい世界観がある。

それだけ「好き」に影響された能動的な活動は意味合いが強い。


自身が想う以上に人生の使命、宿命というものはあって、それこそそれを幼い頃に意識する機会はあって然るべきなのだ。

成長して言語化できるほどに理性と感性とが繋がることが出来ればそれは確信に変わるだろう。


この「好き」という原動力。

色々とはあるが、無心になれるものがきっと最適解。


誰かに絵を描いてくれと頼まれると無償でも描いてあげたくなる衝動がいつも湧く。

社会人の立場としては難儀する考えかたではあるが、きっとそれこそが使命感なのだとおもう。






次も続く。。。